○「自治体の防災・減災マネジメントと災害時の議会・議員の取組み」セミナー
1.概要
日時 2019年7月29日
場所 東京都内セミナー会場
講師 跡見学園女子大学観光コミュニティ学部教授 鍵屋 一氏
2.受講意図
2018年7月の西日本豪雨で、わが丸亀市のシンボル、丸亀城の石垣崩落という未曽有の体験をしましたが、その時、岡山、愛媛の近隣県でもすさまじい被害が出て、香川も災害が少ないが岡山はもっと少ない、との思いが吹き飛んでしまいました。そして「災害は忘れたころに」との説をあざ笑うように、ここ近年、全国で災害の多発、大規模化が毎年、言われています。ある報道では、世界で最も被災しているのは日本、とも言われていました。
2019年6月、丸亀市議会では被災で全国に名を知られた真備町に隣接する総社市から、加藤市議会議長を招き、「そのとき、議会はこう動いた」と題して講演をしていただきました。災害対策本部に「議会・議員」は入らない。ただ議会事務局長だけがその傘下に名を連ねる。ときには議員各自の災害対応の行動が、災害対策本部全体の動きにとって足かせになったりするケースもある、とも言われます。総社市では、まず全議員の被災状態を確認の上、現場で消防団活動をしているなどの方を除き「動ける人」に集合してもらい、時間を割り振り、班編成をして2人1組で災害対策本部の業務を「支援した」という行動に出たとのこと。そして議長は本部の市長、つまり本部席の隣に陣取っていたことで市長がのちに「議長がいてくれたおかげで予備費を使うことがためらいなくできた」と感想を述べたとのこと。これらをお聞きし、わが丸亀市議会は発災に対してどう動くべきなのか。専門家の講義を聞いて考えよう、そのように思いました。
3.セミナー(1)自治体の防災・減災マネジメント
○近年の災害状況。大阪北部地震直後の図書室。本棚がゆらゆら倒れるのでなく、叩きつけるように倒れてきた。真備町避難所の状況。50人中40人が1階で死亡。この体育館に150~200人収容。プライバシーのため柵を作ったが、厚紙のパイプで骨組みを。鉄は恐怖であった。発災から10日後の画像。雑魚寝の暮らしで、雑魚寝から起き上がり、ごはんを食べると埃を吸い込むことから誤嚥が生じる。ベッドに改善。汗を吸って使えなくなる。車中泊も多かったが、これは自主避難と扱われ、市の管理にならない。市の重点は避難所運営から避難生活の支援へ移っていく。ちなみにこの体育館では、大臣が視察に来る直前に冷房がついた。
○2018年11月29日、男鹿のナマハゲが無形文化遺産に。講師はここの出身(そのままの方言で講義をしている)。「泣ぐ子はいねが?」「ナマケモノはいねが?」私(講師)も小学5年生まで泣かされていた。「怠けをはぐ」ところから「ナマハゲ」と呼ばれる。夕方4時半から7時にかけて、一晩で20軒ほど回る。したがって20杯飲んで帰る。「ナオラエ」をしてから人間に戻る、という流れ。ナマハゲに扮するのは「村の模範的な若者」、つまり消防団員。彼らは「ナマハゲ台帳」(訪問台帳)を持っている。それがそのまま「要支援者名簿」として機能する。お面を通して「ここのおばあちゃんも歳を取った。もう一人で逃げられないなあ」など。古来、ここは9000年前の火山灰が層をなし、低いところほどすべった。それで津波の来ないところに神社はある。そして山道が避難路になっている。ナマハゲは「災害ボランティア」だ。平時は五穀豊穣、家内安全を祈る来訪神だが、災害時は、要配慮者情報(ナマハゲ台帳)に基づいて避難支援を行う。避難場所(神社)を日頃から使う。避難場所までの参道を整備する。確実な「同行避難」を可能に。日本に防災教育はない。国語・算数…という主要5教科はドイツの流れを汲んだものだ。ドイツには地震、津波、台風なく、住める面積は7割を占める。日本とは国土の状況が違う。「いのち」の授業が日本には必要だ。「逃げる」教育が必要だ。
○男鹿は暖流の終わりの場所。北前船が行き来する「風待ちの男鹿」。400年に1回、災害はやってくる。1983年5月26日、日本海中部地震で100人が死亡。「引き波」の怖さを知らない子どもらは喜んで海に飛び込み、命を亡くした。
○板橋区役所で防災課長を経験。防災計画では「人は動かない」。自分で考え行動すること、住民参加が必要と実感。同区役所で議会事務局長も経験したが、それよりも、防災と福祉部局が、やりがいがあった。200mを普通に車椅子で歩いてみると大変だった。まさにアスリート級だ。福祉課時代、たくさんのことを学んだ。
○大津波記念碑。「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津波、此処より下に家を建てるな」との碑文。宮古市重茂(おもい)姉吉(あねよし)地区に立つ。昭和三陸地震(昭和8年)の津波被害の教訓を刻む。ここでは東日本大震災で被害が出なかった。不便だけど不幸じゃない、これが大事だ。キャッシュレスも便利だろうけど、幸せか? 対話こそ必要なのに。
○大阪市浪速区に立つ「安政大津波の碑」。20万戸が全半壊、7500戸焼失。それでも無風の早朝だったので被害は少なかったという。「願くハ、心あらん人、年々文字よミ安きやう墨を入給ふへし」。毎年8月の地蔵盆には、この津波碑を洗い、文字が読みやすいように「墨入れ」を行い、地域の人々が集まって供養が行われている。板に墨で描いたのでは消えてしまう。
○京都大防災研究所の矢守教授らによる「Days Beforeプロジェクト」①。「15、16と連休になりましたから、娘は、下の従妹と1日中遊んで、夜もぎりぎりまで遊んで。昨日や今日遊んだ楽しいことをお友達に話すということで、ニコニコとうれしそうに眠ったんですよね」。これは阪神・淡路大震災で小5の娘さんを亡くされたお母さんの談。このような「昨日と今日の落差」を綴るプロジェクト。マニュアルは役に立たない。それは「平常の心」で書いてあるからだ。
○「同プロジェクト」②。「16日の夜、次男が2階へ上がってきて、お父さん一緒に風呂行きましょうって。ほな行こかって。そんなこと今まで一回もなかったんやけどな。風呂屋では、いろいろ話したわな。大学の生活とか、卒業したらどないするとか」。同、大学2年生の息子さんを亡くされたお父さんの談。生き残った両親は自分を責める。これを「サイバーズギルティ」という。なぜ、家を強くしなかったのか。なぜ、自分が2階に寝なかったのか…慰める言葉もない。
○2011年3月11日、東日本大震災。死者19,667人、行方不明2,566人。計22,233人(2018.9.1消防庁)。避難者154,782人、震災関連死3,674人(2018.3復興庁)。関連死は高齢社会の特徴。避難所生活の問題でもある。
○誰が「逃げろ」と伝えたか、調べ。①家族・同居者101人、②近所・友人97人、③福祉関係者74人、④警察・消防(団)30人。
○誰が「逃げる」のを支援したか。①家族・同居者85人、②近所・友人60人、③福祉関係者(これは施設入所者がメイン)53人、④消防(団)11人。近所・友人と福祉関係者の支援力が強い。
○ケアプランに災害時対応を書き込め。ケアプランや障害者総合支援法の個別支援計画に災害対応なし。最優先の4項目とは①道路を開く②遺体③避難所④物資。他のことを差し置いても、霊安所、遺体を洗うことに配慮を。メンタルをやられる。結果、生きている人への支援が弱くなる。
○東日本大震災、死者の教訓。高齢者が約6割、障害者死亡率は2倍。体力がない、地域とのつながりが弱い。自治体職員221人、消防団員254人、民生委員56人、福祉施設職員86人。守り手、支援者の危機管理能力向上が必要。3,674人の震災関連死。95%が66歳以上、移動や避難所で衰弱。福祉防災計画(BCP)が必要。日本では任務放棄の基準を役所は決めてない。日米開戦のゼロ戦の威力を思い知った米軍は「ゼロ戦とは戦うな。勝てないから戻れ」と。こうして日本が制空権を握った。しかし米軍はゼロ戦の5倍の威力持つグラマン量産で対抗。「アイ・シャル・リターン」で反撃開始となった。日本のルーターは高価で壊れないが、アメリカの安いルーターはよく壊れる。でも3台つなぐと追いつく。
○大災害は「忘れない」頃にやってくる。貞観時代。863越中・越後大地震、864富士山・阿蘇山噴火、868播磨・山城大地震、869M8以上の貞観地震、その後、肥後、出雲、京都、千葉で地震、878南関東でM7以上の直下地震、887M8以上の東海・東南海・南海の三連動地震。この間、25年。太平洋プレートは年間8㎝動く。10年で80㎝、100年で8m。天正・慶長の時代。1586飛騨、美濃、近江でM8級の天正大地震、1596伊予、豊後、伏見でM7級の慶長地震、17世紀初頭、十勝沖から根室沖までⅯ8.4級の地震、1605M8級の東海・東南海・南海三連動型の慶長大地震、1611M8級の慶長三陸地震、1615慶長江戸地震。この間30年。元禄・宝永の時代。1703年M8級の元禄関東地震、1707M8.4の東海・東南海・南海三連動型の宝永地震、同年、富士山が噴火、1717M7.5宮城県沖地震。この間15年。大正・昭和の時代。1923M8関東大震災、1936M7.4宮城県沖地震、1944年M8.2東南海地震、1946M8.4南海地震、1948福井地震。この間は26年。平成の時代。1995阪神・淡路大震災、2004中越地震、中越沖地震、能登半島地震、岩手・宮城内陸地震、2011M9の東日本大震災。今は「震災前夜」と言える。25年後なら2020年、30年後なら2025年。
○大地震の発生確率(30年)。首都直下地震(M7級)70%、南海トラフ地震(M8級)70~80%。ちなみに30年間の危険率、火災で死傷する確率0.2%、交通事故死確率0.2%、交通事故負傷確率25%、ジャンボ宝くじで100万円以上当たる確率0.7%(ただし年4回20枚ずつ買った場合)。ということはこのペースで買い続けると4200年に1回当たることになる。薩長は富くじを禁止した。しかし関東大震災を機縁に「復興宝くじ」が復活。年4500円の利益を復興でなく予防に使うべきだ。
○なぜ、人は備えないのか? なぜ、行政・企業の災害対策の優先順位は低いのか? →「正常化の偏見」。「自分は大丈夫」。これまでも生きて来られたから、には根拠なし。しかし生きるために、これは欠かせない「心のクセ」でもある。
○人間、災害発生時には判断力が小学校低学年レベルになると言われる。そこで①声を出す②目と頭を守る。ダンゴ虫のポーズ③自分のケガ、人のケガを見極める。ブレーカーを落とし、公園へ。
○防災の正四面体
自助
共助:ボラ、NPO、企業など 近助:近所、消防団など
公助
○進む高齢化。阪神・淡路大震災の時と比較し、高齢化率は2.4倍に。
○減る近所づきあい。「醤油を貸して」→今はコンビニに。
○自治会活動も低下。「参加していない」が51.5%に。
○減り続ける自治体職員。20年で54万人、16%減。公助にも限界。高齢者増え、一人暮らし増え、自治会減り、消防団員減り、自治体職員が減る。「弱い社会」。
○組織は「非日常」が苦手。危険時は「臨機応援な対処」が必要だが組織は継続性、安定性、先例重視、原則として特別な判断をしてはならないルール。日常はマニュアルに頼り、予測可能性が高いが、非日常はマニュアル化に限度。避難所で「並んでください」というのが「公平」だが、高齢者や障害者を並ばせて「平等」と言えるのか。
○マスコミへの対策。構図として「かわいそうな被災者、出来の悪い行政」となりがち。行政を責める構図にはめられないように。部長時代に「神質問」してくれた人がいた。路上生活者は路上に戻すべきではないか?と。それ以降、批判がピタッと収まった。役所に「ミルク備蓄を」と言うけれどお母さんには「ミルク備蓄を」とは言わない。
○ナショナルレジリエンスの3要素+1。①危機を予測する力。「正常化の偏見を排し、科学的に予測。②危機を予防する力。「被害抑止」と「対応準備」。③危機に対応する力。「最小限に収める」。④危機から回復する力。肘をこわした3人。村田兆治は速球で復帰、与田剛は監督で復帰、板東英二はタレントとして復帰。災難は、新しく変わるチャンスでもある。まちづくりのビジョンは災害のあった時に実現するものに作っておくべき。
○災害対策基本法には「国民の生命、身体及び財産を災害から保護する」とある。生命と身体は同じだ。ジョン・ロックの唱えた基本的人権は生命、自由、財産だ。「自由」を「身体」と言い換えたのか。生命、健康、自由、財産が本来あるべき基本のはずだ。ライフ、リバティ、プロパティ。「身体」を「自由」に変えるだけで、災害時にも自由という人権を尊重する規定になる。トイレが好例。
○命を守る地震対策。「断捨離」もオッケー。モノを少なく。耐震化で被害は激減。2兆円の耐震費用で67兆円の被害軽減。「貧しい人は諦めて」というのが今の政策だ。高齢者の心情として「もう長生きしたし、なけなしのカネを耐震化につぎ込めない」。部分補強とバリアフリーの合わせ技、墨田区での簡易補強補助に高い実績。337件はダントツ。6分の5まで補助。業者は同区の人を選ぶことに。
○賃貸住宅は耐震性を公表すべき。400人に調査した結果、アパート選びで「耐震」を考えた人は「ゼロ」。熊本地震で1階が潰れた南阿蘇村のアパートの例。「改築7年」との表示はそもそも「新築から何年」なのかわからない。
○地区防災計画は弱くなった共助の強化を主目的としている。近助が強くなれば、自助も公助も強くなる。
○共助と公助の役割分担。
公助1:リスクを科学的に把握する
公助2:避難所を指定する
公助3:避難勧告等を放送
近助1:安否確認→警戒レベル3で始める。
近助2:避難誘導
近助3:避難所等で支えあう→これが地区防災の役割。
○地区防災計画は住民が自ら決め、市町村へ提案しておく。これにより「公的な性格」を持つ。「水は自分で確保して」など、あらかじめ話し合っておく。安否確認の仕組みづくりが重要。自助の推進として、家具止め、水の備蓄、断捨離などを常時から考えておく。計画は年に2回は考えよう。考え、対話し、納得することが大事。まず仕組みを学び同意した人から実践、それを拡大していく。H30西日本豪雨では、大洲市三膳地区「独自カード」の活用で全員が逃げ切ることができた。住民参加で作ることで大きな効果。
○地区防災計画策定のプロセス。①地区のリスクを知り、対象とする災害を決める②地区の備えを知る③ワークショップで意欲を高め、集合知を作る。みんなが賛成する対策から始める④計画、実行、検証、見直し。そのプロセスで、人間力、コミュニティ力を高める。
○富士宮で生きた「黄色いハンカチ」。これは400円で売った。タダでもらったものは大事にしないから。
○高齢社会だから「福祉防災計画」が必要。しかし福祉施設でBCP策定の意識は低い。
○鵜住居小学校の被災。300人の先生と生徒。校舎3階に突き刺さる車の画像。ハザード上では津波が来ないとされた場所。それでも避難訓練をした。最初は完了まで30分かかっていたが、工夫し、10分でできるようになった。その3週間後に津波が来た。津波は100m10秒の速さ。見えたら遅い。「振り返る児童は一人もいない」避難風景の画像。地元の人は避難せず。子どもたちの避難する姿を見て、あとでついて来て助かった。放送機器が壊れて、避難情報が誰にも伝わっていなかった。
この後、地区防災の設置運営、福祉施設のBCPのポイントなどについて詳細な講義あり。
4.セミナー(2)災害時における議会・議員の役割と取組み
○東日本大震災での宮城県東松島市議会議員の行動に学ぶ。
①東松山市の被害概要。人口約4万3千人、死者1110人(内、関連死者66人)、行方不明者24人、家屋被害全15,080世帯中、全壊5,515、大規模半壊・半壊5,589、一部損壊3,506、損壊家屋は97%。
②議長は災害対策本部員ではないが「押しかけて」本部入り。議員の安否確認。22名中20名が無事、1名死亡、1名は流され凍傷で病院。議会としての統一行動は不可能。議長マニュアルなく、自分で考えるしかない。3日目、市長と陸自ヘリで被災状況確認。海自に要請しようにも国の官僚は「どこどこに連絡を」と埒が明かない。千歳の基地協議会が受けてくれた。人脈は大事。議長職務を全うしていて地元では不評。議員団としては何もできず。議場は避難者でいっぱい。犬までいた。
いつの間にか議員の役割はそれぞれ決まってきた。指示もしないのに、過去の地震の経験からそうなった。各議会がそれぞれに国に要望するのでなく、県議会と協力して中央に支援を求めたのがよかった。
③U議員(元航空自衛官)。避難所で3月末までお世話。最初の10日間で避難所運営のための組織を立ち上げ。卒業式は不可能だったが入学式を行うため徐々に避難者を移す。家のある人には帰ってもらう。避難所で足を伸ばして寝られるようになった。教室は29室。それぞれに班長、伝達系統を整備。「あなたが長ですよ」。食事、水を盗まれないようにした。避難所の管理者は学校長。「これをやりますよ」と連携をとりながら運営。風邪の人の隔離、よそで断られた避難者も受け入れ。ペットのいる人は別にする。4日目に医者が来たので診療室設営。直接来たボランティアは受け入れず「市を通してください」。
④O議員。消防団分団長。チリ津波の記憶があり、皆あまり危機感なく、そこに海が盛り上がってきて必死で逃げた。高台の人たちが米、布団を差し入れてくれた。それでおにぎりを作る。翌日から、区長、自主防災会、私、役場の職員で朝晩、対策会議。寒さ対策、食事確認はすべて「浜ごと」。困ったのはトイレ。すぐにいっぱいになり、山に避難していた衛生車を活用。毛布と水がヘリで3日目に届いた。橋が落ち、孤島となったのがやりやすかった。不特定の流入がないから。半月間、ボランティアや取材を受け入れず。
⑤鍵屋氏との質疑応答より。
・4/5にようやく震災対策特別委員会を立ち上げた。
・頼りにされすぎて「やるのが当たり前」と、非難の声まで出た。
・毎日、役所で情報をもらい、住民に伝えた。
・孤立した島に議長から要請したらすぐに水道パイプが通った。これは議会ならではと思う。電気も道路かさ上げも早かった。
・めいめいの議員でなく議長が要望を押し上げたのがよかった。
・議長は毎日、本部に詰めている。ほかの議員は地元がある。
・避難所では、議員は、仕事は最初、食事は最後。
・避難所で太る人もいる。手厚すぎる支援を人をだめにする。
・災害対策本部での議会の位置づけは、正副議長、常任委員長の範囲内で議会部として参画するほうが良いのでは。それには費用弁償など課題もある。反対に「オブザーバー的」では、その当時の議長が本当にやるかどうかわからない。
・4/5に立ち上げた特別委員会はどこまでも「情報収集」を目的とした。
・すべての権限は「議長にお任せ」のほうがいい。行政を信頼すべき。
・国への陳情は、行政と議会が一体で。議会の権限は大きいから、それを振り回すべきではない。
これを素材に、参加者がワールドカフェで議論。発表。
○応急対策期の議会、議員。「じゃまをしない」。益城町で困っているのは「国が堅い」こと。活動ルール、議長への情報一本化、積極的な情報提供、地域活動を展開。
○復旧・復興期の議会、議員。国・県との政治的調整、議長のリーダーシップ、審議方式(全議員か特別委員会か常任委員会か)の調整、行政と住民のパイプ役、地域エゴを許さず。
○地方議会の災害時の役割について法制度も明確でない。まず住民の命を守る。議会・議員だけではできないことであり、市当局と協働し、国県防災関係機関に働きかける。
○議会基本条例等で災害時の責務を規定しているもの。2012年0.8%→2016年5.2%。議員行動マニュアルの策定。2012年3.9%→2016年19.9%。高まっているがまだ低い。これだけでは議員各自がスタンドプレーに走るかも知れない。職員は部下ではない。
○議会の災害対策本部。法的根拠ない任意の機関。人的資源、内部調整、対外調整が課題。情報収集は可能。
○発災時、執行機関は議会対応の時間がない。
○マスコミは災害時、行政批判をする傾向があるが、これが住民の行政への信頼感を損ね、分断する。同様に議員の発言も影響力が大きく、議員による行政批判も行政と住民を分断する。行政と議会は平時と異なり、心を合わせ、同じ方向性で応急対策期を乗り越える。
○議会の「サイレントタイム」を。災害対策本部が行う予防・応急対策中は、議会活動を休止。議会に説明が可能になる時期以降に活動再開を。
○議員が災害対応を学び、「60点で満点」の共通認識を持つ。議会が「議員要望を優先する必要がない」と表明する。これを受け、長は「ありがたい」と表明する。
○災害時議会・議員活動の考え方。議会が監視機能と政策提案機能を発揮すると、災害対応全体が遅滞する。議会と執行機関が協力すると混乱が少ない。応急対策時は、議員は地域支援。復興時はまちの未来形成を議会で審議。百年、千年へ。
○議会が、「正常化の偏見」を破ろう。普段から、行政職員の危機管理力を高めるために議会が質疑、提案を通じてその重要性を訴え続ける。防災以外の常任委員会で、各部署の防災の質疑をすると良い。例えば教委や福祉部門での防災について質問するなど。
○易経に「国家にとって忘れてはならない要諦“三不忘”」あり。①治まりて乱を忘れず②安くして危を忘れず③存して亡を忘れず。忘れると、滅びる。これが危機管理の要諦である。
○災害に強い、災害に“も”強い自治体とは、縦に参画意欲つまりやる気を高める、横に共助の防災、つまり仲間を増やすこと。
○人を健康で幸福にするのは、“良い人間関係”に尽きる。ロバート・ウォールディンガー。
○これからの防災は、これまでの課題解決・損失を減らす防災から「価値向上型」の防災へ。日常から人間関係・近所関係を良好にし、排除される人がいない、魅力ある地域を作ることが、災害や危機にも強くなる。
○孫子。古の善く勝つものは、勝つべくして勝つものなり。善く戦いて勝つや、勇功なく智名なし。「名声なし」こそ最高の将軍。議員として最高の将軍に!
5.感想
いきなり「男鹿弁」で始まった講義は、参加者を驚かせるとともに、その方言と人柄とですぐさま参加者の心を惹きつけるものでありました。
そしてその方言で語る「泣ぐ子はいねが~」のエピソードは、深く心に刻まれました。一月後に、丸亀市では消防団の訓練大会が開かれ、議長としての挨拶の中に、少し長くなりましたがこのエピソードを入れさせていただきました。怖いお面の奥で、消防団の青年が「ここのおばあちゃんも歳を取った。もう一人では避難できないかも」と見つめるまなざしの温かさ。ここにこそ、防災のあらゆる政策の要諦がある、そのようにさえ思いました。
一日がかりの防災セミナー。地区防災や福祉施設でのBCPなどについては本文で少しはしょらせていただきましたが、とても微に入り、講師の研究の壮大さを物語るものでありました。それを裏打ちする、これまでの膨大な実地調査がありました。
災害の少ないわがまち、と書きましたが、もうそのように言ってはいられません。南海トラフ地震を思えば、「来てほしくない」「うちは大丈夫」という安全幻想をまずは排し、そして市長部局なら1つのベクトルでルールを構築できるであろうところ、議会では衆議一決まで時間とプロセスを要します。合意形成へ、しかしひるまずたゆまず、今回の講師の情熱を何度も思い起こしながら、挑戦をしてまいりたい。
また、このユニークな講師を丸亀に招く機会を得られれば、これに勝る「近道」はないとも思います。同僚議員と語り合い、機運を高めて、「手遅れ」「周回遅れ」にならぬよう、ことを進めてまいりたい。